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【風俗】間々田のジャガマイタとは?巨大な蛇祭りに残る雨乞いと厄送りの謎

栃木県小山市間々田では、毎年5月5日、竹や藁、シダ、藤蔓で作られた巨大な蛇が町へ現れる。

蛇は全長約15メートルに及ぶ。しかも1体ではない。間々田1丁目から6丁目、長者町までの7町内が、それぞれ異なる姿の蛇を作る。7体は「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」という掛け声とともに間々田八幡宮へ集まり、祈祷を受けた後、境内の弁天池へ頭を突っ込む。

水を飲ませるためである。

その後、蛇は各町内へ戻り、家々の玄関へ頭を差し入れる。現在は厄除けや家内安全を願う所作とされているが、かつては蛇を母屋の表から裏まで通り抜けさせる「家ぬけ」も行われた。

ここまでは、神聖な蛇が水と福を運んでくる祭りに見える。

ところが、祭りを終えた蛇体は保存されない。現在も解体や処分が行われ、かつては村境へ捨てたり、思川へ流したりしていた。恵みを願って迎えたはずの蛇を、なぜ最後には共同体の外へ送り出したのか。

間々田のジャガマイタには、雨乞い、五穀豊穣、疫病退散、八大龍王信仰、家ごとの厄除け、死者供養を思わせる習俗が重なっている。その起源についても、名主家の土蔵に住む大蛇の伝承、龍昌寺の僧侶が始めたという説、龍王信仰に由来するという説明が併存し、どれか一つに決めることはできない。

巨大な蛇は、何をもたらし、何を持ち去ろうとしているのか。現在の祭りと昭和初期の民俗記録を照合すると、観光行事として整えられた姿の下から、家と集落の災厄を集めて境界の外へ送る、古い厄送りの構造が浮かび上がってくる。

7つの町内が作る全長約15メートルの蛇

間々田のジャガマイタは、小山市南部の間々田地区に伝承される蛇祭りである。文化庁は、疫病退散、五穀豊穣、雨乞いなどの除災招福を願う祭礼行事として説明している。

参加するのは、間々田1丁目から6丁目までと長者町の計7町内である。各町内は、それぞれ1体ずつ蛇体を作る。祭りの蛇は一般に「ジャ」と呼ばれ、7体が一つの行事を構成する。

現在の蛇体は、割った真竹を芯とし、藁束や縄を巻いて太い胴体を作る。その上をシダや藤蔓で覆い、頭部と尾を取り付ける。胴体を覆うシダは、地域で「コケラ」と呼ばれることがあり、シダを巻き付ける工程は「コケラ巻き」と呼ばれる。

全長は約15メートル、胴の直径は約30センチメートルに達する。町内ごとに製作方法や外観には差があり、頭部には金紙や銀紙、綿などで作った目や鼻、アワビの貝殻を用いた耳、木の枝や竹で作った角や髭、赤く塗った団扇や厚紙の舌などが取り付けられる。

頭部の形は、一定の規格で統一されているわけではない。龍に近い顔を持つものもあれば、長い角や大きく開いた口を強調したものもある。巨大な身体だけでなく、町内ごとに異なる顔つきが、ジャガマイタの大きな特徴である。

尾の先には、「シリケン」あるいは「尻剣」と呼ばれる、木製の剣形の造形物が付けられる。栃木県教育委員会の資料によれば、かつては墓地に立てられた卒塔婆を用いたという伝承もある。

これを単なる奇抜な飾りとみなすことはできない。卯月八日の行事には、厄除けだけでなく死者供養に関係する習俗が各地に存在する。卒塔婆を用いたという記憶が正確にどの時代まで遡るかは明らかではないが、ジャガマイタに祖霊や死者をめぐる観念が重なっていた可能性を考える材料にはなる。

ただし、現在のシリケンをそのまま死者供養の道具と断定することはできない。確認できるのは、卒塔婆を用いたという伝承が調査資料に記録され、それが卯月八日の死者供養との関連から注目されているという点までである。


蛇寄せから水呑みまで――現在の祭りの流れ

7体の蛇が間々田八幡宮に集結する

蛇体が完成すると、各町内はジャを担ぎ、間々田八幡宮へ向かう。この集合は「蛇寄せ」と呼ばれる。

「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」という掛け声を上げながら、細長い蛇体が町内の道を進む。担ぎ手は蛇の胴を肩に載せ、上下左右に揺らしながら前進する。長い胴は直線を保つのではなく、人の動きに合わせて曲がり、うねる。

7体が境内に集まると、「蛇あげ」が行われる。蛇体は1体ずつ石段を担ぎ上げられ、拝殿前に並ぶ。蛇の口には御神酒が注がれ、祈祷を受ける。

現在の行事だけを見れば、間々田八幡宮は祭りの明確な中心である。各町内で作られた蛇が鎮守へ集まり、神前で清められてから町へ戻るという構成になっている。

しかし、後に確認する1930年の民俗報告には、この蛇寄せが記されていない。現在では欠かせない神社での儀礼が、必ずしも祭りの最初期から同じ形で存在していたとは限らないのである。

弁天池で蛇に水を飲ませる

祈祷を終えた蛇体は、境内の弁天池へ向かう。

「水呑み」と呼ばれる儀礼では、蛇の頭を池の水へ浸し、勢いよく持ち上げる。口から水が流れ落ち、担ぎ手が蛇体とともに池へ入ることもある。池の中で巨大な胴体が激しく揺さぶられる姿は、現在の祭りを象徴する場面となっている。

この所作には、雨乞いの要素があると解釈されている。

蛇や龍は、日本各地の信仰において水と結びつけられてきた。ジャガマイタでも「八大龍王」と記した幟が用いられ、雨、農作物、水神をめぐる信仰との関係が語られている。

もっとも、池へ蛇を入れる儀礼がいつ加わったのかは注意が必要である。文化庁の解説は、江戸時代末期頃には上坪と下坪がそれぞれ蛇を作っていたとする一方、現在の蛇寄せや池での水呑みは、後に加わった要素であると説明している。

つまり、水呑みは現在の祭りの中心ではあるが、それだけをもってジャガマイタの原初的な姿とみなすことはできない。祭りが変化する過程で、既存の蛇行事と間々田八幡宮、池、龍王信仰が強く結びついていった可能性がある。


なぜ蛇は家の玄関へ頭を差し入れるのか

蛇の来訪を受け入れる家々

水呑みを終えたジャは、それぞれの町内へ戻って練り歩く。

町内巡行では、蛇の来訪を希望する家へ立ち寄り、玄関先から頭部を差し入れることがある。間々田八幡宮の説明では、蛇の力によって厄除けと家内安全を祈願する行為とされている。

蛇を家へ入れるという行為は、見方によっては奇妙である。現実の蛇が屋内へ入れば、多くの人は追い出そうとするだろう。だが、祭りのジャは拒まれる存在ではない。家の側がその来訪を希望し、玄関を開いて迎え入れる。

ここでの蛇は、単に恐ろしい動物を模したものではない。家と外界の境界を越え、家の内部へ働きかける祭具である。

玄関は、日常生活の内と外を分ける場所だ。そこへ蛇の頭を入れる行為は、家の外側から福を運び込む所作とも、家の中にある災厄を回収する所作とも解釈できる。

現存資料は、その意味を一つに限定していない。確認できるのは、玄関への差し入れが悪疫や災厄を追い払う行為とされ、厄除けや家内安全を願って行われているという点である。

昭和40年頃まで行われた「家ぬけ」

現在の玄関への差し入れよりも、さらに踏み込んだ習俗が「家ぬけ」である。

栃木県教育委員会の調査資料によれば、昭和40年頃まで、蛇体を母屋の表から裏へ通り抜けさせる家ぬけが行われていた。文化庁の解説には、病人のいる家でジャが屋内に入り、表口から裏口へ抜けたという記録もある。

全長約15メートルの蛇を家の中へ通すには、家具や建物の構造を考慮し、複数の担ぎ手が協力しなければならない。現在の住宅では実施が難しい所作であり、家屋の変化も廃絶の一因になったと考えられる。

家ぬけの意味を直接説明する古文書は確認されていない。ただし、蛇が家の内部を通過し、反対側から出ていくという構造は明確である。

災厄を追い払うという伝承を踏まえれば、蛇が屋内の悪いものを祓いながら抜けていく、あるいは災厄を引き受けて外へ運び出す行為として理解することができる。

現在の玄関への差し入れは、この家ぬけを思わせる。しかし、家ぬけが簡略化されて現在の形になったと証明する資料は見つかっていない。両者には動作上の連続性が見られるものの、直接的な変化関係は推測にとどまる。


かつて家々は蛇の材料を差し出していた

現在の蛇体は、祭りに先立って各町内の公民館などで製作される。実行委員や育成会の関係者、中学生を中心とする担い手、その保護者らが作業に加わり、竹の芯、藁の胴、頭部などを準備する。

しかし、昭和初期に記録された作り方は、現在とは異なっていた。

瀬沼寛二が1930年に発表した「下野間々田町の『蛇がまいた』」を引用した栃木県教育委員会の資料によると、祭り前日の4月7日、各家ではウツギと藤蔓を束ね、母屋の軒、出入口、納屋、井戸などに挿したという。

翌8日になると、子どもたちが家々を回ってそれらを集め、蛇体を作った。

この記録が示すのは、蛇が一部の作り手だけによって用意された祭具ではなかったということである。町内の各家が植物を差し出し、それらが一つに集められて巨大な蛇となった。

栃木県教育委員会の資料は、ウツギや藤蔓によって各家を祓い清め、家々の厄を託した植物を集めて蛇を作り、その蛇によって集落内をさらに祓い清めたと分析している。

この解釈に従えば、蛇体は初めから清浄な神像として完成するのではない。各家の厄を受け止めた植物が集まり、町全体の災厄を背負う身体へ変わっていく。

家ごとの厄除けと、集落全体の厄除けが、一本の巨大な蛇によって結びつけられていたのである。

現在も蛇体には竹、藁、シダ、藤蔓などの植物素材が使われる。しかし、材料を家々の軒先から集める習俗は衰えた。見た目の巨大な蛇は継承されていても、その身体を構成する植物がどこから来たのかという意味は変化している。


1930年の記録に現れる土蔵の大蛇

名主家の土蔵を3周する蛇

ジャガマイタの由来を語る伝承の一つに、旧名主・上原家の土蔵に住む大蛇の話がある。

1930年の民俗報告では、上原家の土蔵にすむ大蛇が毎年4月8日に姿を現し、土蔵の周りを3回回ったと伝えられていた。

これは、大蛇の実在を証明する記録ではない。昭和初期の間々田で、そのような由来が語られていたことを示す伝承資料である。

現在の祭りでは、7体の蛇が間々田八幡宮へ集まる。しかし、かつては上原家の土蔵を3周することが習いであったともされる。栃木県の資料によれば、この土蔵巡りは現在行われていない。

この違いは重要である。

祭りの中心が、初めから神社だけに置かれていたとは限らないからだ。旧来のジャガマイタには、地域の名主家と、その土蔵に住むとされた大蛇をめぐる伝承が強く関係していた可能性がある。

土蔵は、米、道具、財産などを守る建物である。そこに大蛇が住むという伝承は、家の富や農作物を守る蛇の信仰と結びつけて考えることもできる。ただし、上原家の大蛇が具体的に何を守る存在と考えられていたのかは、確認できる資料だけでは断定できない。

現在の中心儀礼が記録されていない

1930年の報告には、現在の祭りで重要な位置を占める間々田八幡宮への蛇寄せについて記述がない。

もちろん、記録に書かれていないからといって、当時まったく行われていなかったと即断することはできない。報告が短く、調査者が記録しなかった可能性も残る。

一方で、栃木県教育委員会は、神社への蛇寄せや祈祷を、伝承の過程で新たに加わった部分として挙げている。文化庁の解説も、八幡宮への集合や池での水呑みが後から加わったとしている。

確認できる資料の範囲では、昭和初期の祭りは、現在よりも家々の巡回、植物の採集、名主家の土蔵、子どもや若衆の活動に重心を置いていた。

現在の祭りを見て、その形が数百年間そのまま続いてきたと考えるのは正確ではない。ジャガマイタは、中心となる場所、担い手、日付、材料の集め方、蛇体の数を変えながら継承されてきた行事である。


「ジャガマイタ」は何を意味するのか

祭りの名となった「ジャガマイタ」は、蛇を担ぐ際の掛け声に由来すると考えられている。

一般には、「蛇が参った」が変化したとする説と、「蛇が巻いた」が変化したとする説が紹介される。

「蛇が参った」であれば、蛇の到来を告げる言葉となる。蛇が町を巡り、希望する家の玄関へ入る現在の行為とはよく対応する。

「蛇が巻いた」であれば、蛇がとぐろを巻く姿を表す言葉となる。祭りでは「蛇もみ」と呼ばれる所作があり、蛇体を円形に操ってとぐろを巻かせる。複数の蛇が出会った際には、2体を絡ませるように激しく動かすこともある。

どちらの説も、現在の祭りの動作と結びつけることはできる。

しかし、国指定文化財等データベースは、呼称の意味内容は定かではないとしている。語源を確定できる古い文書や同時代記録は確認されていない。

「蛇が参った」と「蛇が巻いた」のどちらかを正解として断定することはできないのである。

1930年の記録には、「蛇がまいた、蛇がまいた、四月八日の蛇がまいた」という趣旨の唱え言葉が残されている。ここでは「まいた」の部分が音として記録されているだけで、それが「参った」なのか「巻いた」なのかは示されていない。

語源が不明であることは、祭りの価値を損なうものではない。むしろ、言葉の意味が確定しないまま、掛け声そのものが身体の動きとともに継承されてきた点に、この祭りの特徴がある。


祭りの日はなぜ「四月八日」だったのか

1970年頃に5月5日へ変更

現在のジャガマイタは、毎年5月5日に行われる。

しかし、かつての祭日は旧暦4月8日だった。栃木県教育委員会の資料では、1970年頃を境に新暦5月5日へ変更されたとされる。国指定文化財の解説では、昭和40年代後半から現在の日付になったと説明されている。

日付の変更には、祭りの中心的な担い手である子どもたちが参加しやすい、こどもの日が選ばれたとされる。

開催日が変わると、掛け声にも変化が起きた。昭和初期には「四月八日の蛇がまいた」と唱えられていたが、県の調査によれば、日付の変更に伴って「四月八日の」という部分が省略され、「ジャガマイタ」という言葉だけが残るようになった。

現在の紹介資料の中には、旧来の完全な掛け声を掲載するものもある。しかし、現代の全町内、全場面で「四月八日」まで唱えられていると断定することはできない。

失われた言葉の一部は、祭りがかつて別の日付と別の季節感の中で行われていたことを伝えている。

卯月八日は仏教行事だけの日ではない

旧暦4月8日は、釈迦の誕生を祝う灌仏会の日として知られる。そのため、ジャガマイタと仏教行事との関係が語られることがある。

だが、4月8日の習俗を灌仏会だけで説明することはできない。

民間の卯月八日には、花を立てる、山へ登る、農作業の開始を前に厄を祓う、死者や祖先を供養するなど、地域ごとに多様な習俗が伝えられてきた。

間々田では、家々の軒や井戸などにウツギと藤蔓を挿し、翌日に集めて蛇を作った。この行為は、田植えが始まる前の祓い清めと結びつけて分析されている。

さらに、蛇の尾に付けるシリケンに卒塔婆を用いたという伝承は、卯月八日の死者供養との関係から注目されている。

つまり、旧暦4月8日のジャガマイタには、農耕前の清め、家ごとの厄除け、集落全体の祓い、死者供養、後に強く現れる雨乞いや龍王信仰など、複数の意味が重なっている可能性がある。

旧暦4月8日が灌仏会と一致することは事実である。しかし、その一致だけを根拠として、ジャガマイタが灌仏会から直接始まったと断定することはできない。


八大龍王と雨乞いの信仰

現在の祭りでは、「八大龍王」と記した幟が用いられる。

八大龍王は仏教に登場する龍王であり、龍や蛇、水、降雨をめぐる信仰と結びついてきた。ジャガマイタでも、龍を模した蛇体を池へ入れる水呑みが行われるため、八大龍王信仰や雨乞いとの関係が説明されている。

間々田の周辺は、かつて宿場町や物資の集散地として栄えた一方、麦や野菜などの農業も盛んな地域であった。田畑を維持するうえで、必要な時期に雨が降ることは切実な願いだった。

巨大な蛇を水へ入れ、五穀豊穣を祈る行為は、農耕と水の関係を視覚的に示している。

ただし、現在の水呑みが祭りの最初から存在したわけではない可能性がある。古い家ごとの厄除け行事に、八大龍王信仰や雨乞いの要素が習合し、現在の形へ発展したと考えた方が、資料間の食い違いを説明しやすい。

栃木県教育委員会も、ジャガマイタを、災厄の侵入を防ぐ信仰を背景として、農家の五穀豊穣を願う雨乞いの習俗が習合した行事と評価している。

蛇が水の神の使いとして福をもたらすのか、それとも厄を背負って去るのかという疑問は、どちらか一方を選べば解決するものではない。

ジャガマイタの蛇は、水と豊穣を呼ぶ存在であると同時に、家や集落の災厄を引き受ける存在でもある。その二つの役割が、異なる時代の習俗と信仰を通して一つの蛇体に重ねられたと考えられる。


龍昌寺の僧侶が始めたという伝承

ジャガマイタの起源については、龍昌寺の僧侶が始めたという説も語られている。

栃木県教育委員会の資料によれば、龍昌寺は慶長11年、1606年の創建とされる。寺の住職が、地域を襲った大旱魃と疫病による人々の苦しみを見て、雨乞いと疫病除けのために祭りを始めたという。

しかし、僧侶の名前は資料間で一致していない。

栃木県教育委員会の資料では「法牛東林」と記され、没年は天保3年、1832年とされる。一方、間々田八幡宮の説明では「法隆東林」という表記が用いられてきた。

どちらが本来の表記なのか、現在公開されている資料だけでは確定できない。

また、この人物が祭りを創始したことを示す同時代の文書も確認されていない。県の資料は、祭りの由来について文書記録がないため不詳としている。

したがって、龍昌寺の僧侶起源説は、地域に伝わる由来の一つとして扱う必要がある。「江戸時代に僧侶が祭りを始めた」という説明を確定した史実として書くことはできない。

一方、僧侶の没年を含む伝承や名主家の大蛇伝承などから、江戸時代後期には卯月八日の習俗として祭りが行われていたと考えられている。

「約400年前から続く」と紹介されることもあるが、創始年を確定できる史料は存在しない。確認できる資料の範囲では、祭りの具体的な姿をたどれるのは江戸時代末期頃からである。


2体だった蛇が7体に増えた

現在は7町内が1体ずつ蛇を作るが、かつてから7体だったわけではない。

江戸時代後期頃には、旧間々田の名主であった上原家を境として、南側を下坪、北側を上坪と呼び、それぞれ1体ずつ蛇を作ったと伝えられる。

祭りの終了後、下坪の蛇は村境にあった「逢いの榎」の下へ置かれ、上坪の蛇も「松原」と呼ばれた村境へ捨てられたという。

その後、上・中・下の3区分となり、明治期には1丁目から5丁目までがそれぞれ蛇を作る形へ変化した。戦後になると6丁目と長者町が加わり、現在の7町内となった。

蛇体の数が増えたのは、単に祭りを華やかにするためではない。人口の増加や町内組織の変化に合わせて、祭りの単位が再編された結果である。

この変化によって、祭りは町内ごとの個性を競い合う性格を強めた。蛇頭の形、装飾、腹帯や鉢巻の色、担ぎ方などに町内の違いが表れる。

一方、蛇の数が増えても、町内ごとに蛇を作り、巡行後に処分するという基本構造は維持された。

ジャガマイタの伝統とは、同じ形を一切変えずに保存することではない。町の区分、人口、住宅、子どもの数、材料の入手環境に応じて形を変えながら、蛇を作り、担ぎ、送り出す行為を継承することにある。


子どもの祭りと若衆の荒々しい巡行

現在のジャガマイタは、子どもたちが重要な担い手となる行事である。

蛇体作りでは中学生が中心となり、小学生や保護者、大人の関係者が作業を支える。祭日が5月5日へ移された理由も、子どもが参加しやすい日程への変更と説明されている。

しかし、かつては昼と夜で担い手が交代していた。

文化庁の解説によれば、昼間は子どもたちが蛇を担ぎ、夜になると若者たちが引き継いで町内を激しく担ぎ回ったという。

1930年の報告には、夕刻に子どもたちが蛇を担いで家々を巡り、銭を受け取ったことが記される。夜には若衆が蛇を激しく担ぎ、隣町の若衆と競り合いや喧嘩になることもあった。評判のよくない家を荒らしたという記述もある。

この記録を、地域全体が認めた正式な制裁制度とみなすことはできない。確認できるのは、祭りの高揚の中で、地域内部の対立や評価が荒々しい行動として表れる場合があったということである。

祭りには祈願だけでなく、普段は抑えられている緊張が表面化する場としての一面もあった。

国指定文化財の解説では、昭和50年頃から、風紀上の理由や自治会の主導によって、大人と子どもが混在して担う現在の形へ変化したとされる。

現在の整えられた祭礼からは、夜の若衆が激しく蛇を担ぎ回った姿は見えにくい。だが、長い蛇体を大勢で操り、町内同士が競う現在の熱気には、かつての荒々しい巡行の痕跡も残されている。


祭りの後、蛇はどこへ行くのか

村境へ捨てられた蛇

ジャガマイタの意味を考えるうえで最も重要なのは、祭りを終えた蛇体の扱いである。

蛇は祈祷を受け、水を飲み、家々の厄を祓う。それほど重要な祭具でありながら、翌年まで保存されるわけではない。

かつては、蛇体を村境へ捨てたり、思川へ流したりした。

村境は、共同体の内側と外側を分ける場所である。川もまた、物を遠くへ流し去る働きを持つ。祭りの最後に蛇を境界へ運び、そこへ残したり水へ流したりする行為は、不要になった飾りを片付けるだけでは説明しにくい。

文化庁は、作り物の蛇体に災厄を託して送る信仰が根底にあると説明している。

昭和初期の記録にあるように、蛇体が家々から集めたウツギや藤蔓で作られていたなら、その意味はさらに明確になる。各家で厄除けに使われた植物を集めて蛇を作り、集落を巡らせ、最後に村境へ捨てる。

蛇は災厄を集める器であり、共同体の外へ運び出すための身体だった可能性がある。

現代の処分方法も一様ではない

近現代の蛇体の処理については、資料によって記述が異なる。

国指定文化財等データベースの記録選択時点の解説には、祭りを終えた蛇体を間々田八幡宮の裏手へ集めて燃やしていたとある。一方、重要無形民俗文化財指定時の文化庁解説では、町内巡行を終えた蛇を切断するなどして処分するとされる。

さらに、小山市の近年の資料には、解体したシダなどを畑で肥料としてきた町内や、神社裏へ運んだ町内の例も記録されている。

これは、どれか一つの資料が必ず誤っているという意味ではない。年代や町内、材料の処理方法によって差があると考えられる。

確認できるのは、祭りの蛇体が恒久的に保存される造形物ではなく、その年の役目を終えた後、解体・廃棄・再利用などの対象になるという点である。

蛇は毎年新しく作られる。災厄を託して送り出すという意味を考えれば、前年の蛇をそのまま使い続けないことにも一定の整合性がある。


蛇は福を運ぶのか、厄を持ち去るのか

ジャガマイタの蛇には、一見すると相反する役割がある。

弁天池で水を飲む蛇は、雨と豊穣を願う龍神的な存在である。家の玄関へ招き入れられる蛇は、厄除けと家内安全をもたらす存在である。

一方、家々の厄を託した植物から作られ、最後に村境や川へ送られる蛇は、災厄を背負う依代である。

祝福を運ぶ蛇と、悪いものを持ち去る蛇は、必ずしも矛盾しない。

外から訪れた蛇が家を祓い、災厄を引き受け、それを集落の外へ運ぶと考えれば、来訪と排出は一続きの儀礼になる。

蛇は家へ入るが、そこに住み続けるわけではない。町を巡り、家々に関わった後、最後には外へ出される。この移動そのものが、ジャガマイタの重要な構造である。

ただし、「蛇が神と穢れの器を兼ねている」という表現は、古文書にそのまま書かれた説明ではない。これは、現在の祭礼、昭和初期の記録、文化財解説を組み合わせた分析である。

伝承の当事者が、すべての所作を一つの理論で説明してきたとも限らない。雨乞い、疫病除け、家内安全、厄送りは、異なる時期に強調され、地域の変化に応じて意味づけを変えてきた可能性がある。

だからこそ、ジャガマイタの蛇は一つの名称では捉えきれない。

龍であり、蛇であり、神聖な祭具であり、家々の厄を集める身体でもある。


国の重要無形民俗文化財となった理由

間々田のジャガマイタは、2011年に「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。その後、小山市は調査委員会を組織し、2016年度から2017年度にかけて行事と関連習俗を調査した。

成果は、2018年3月刊行の『間々田のジャガマイタ調査報告書』にまとめられた。2019年3月28日には、国の重要無形民俗文化財に指定された。

文化財として評価されたのは、7体の巨大な蛇が集まる外見的な迫力だけではない。

植物で作った蛇体に災厄を託して送り出すこと、香りの強い草木で邪気を祓うこと、水と蛇によって降雨を願うこと、子どもを中心とする町内組織が製作と巡行を担うことが、日本の除災儀礼や農耕祭事を考えるうえで重要とされた。

同時に、文化財指定は、祭りの姿を一つの時点で固定するものではない。

調査報告書や伝承館整備の資料では、竹、藁、シダ、藤蔓などの材料確保、製作技術の継承、担い手の育成、少子化への対応、記録保存などが課題として挙げられている。

シダは自然に採取すれば無限に得られるものではない。町内によっては栽培を行い、採取する際にも株の中心を残すなど、翌年以降の生育を考えた方法が伝えられている。

巨大な蛇を毎年作るには、祭り当日だけでなく、材料の確保、製作場所、技術指導、世代間の協力が必要である。

ジャガマイタは、完成した蛇体だけを見れば理解できる行事ではない。蛇を作る前の土地と植物の管理から、祭り後の解体までを含めて成り立っている。


まとめ

間々田のジャガマイタでは、7つの町内がそれぞれ全長約15メートルの蛇を作り、間々田八幡宮へ集める。蛇は祈祷を受け、弁天池で水を飲み、町内を巡って家の玄関へ頭を差し入れる。

現在は、五穀豊穣、疫病退散、雨乞い、厄除け、家内安全を願う祭りとして継承されている。

しかし、昭和初期の記録を読むと、現在とは異なる姿が現れる。

家々はウツギや藤蔓を軒先に挿し、子どもたちがそれを集めて蛇を作った。旧名主家の土蔵には、毎年4月8日に現れて周囲を3周する大蛇の伝承があった。蛇を家の表から裏へ通す家ぬけが行われ、祭りの後には蛇体を村境へ捨てたり、思川へ流したりした。

一方、現在の中心儀礼である間々田八幡宮への蛇寄せは、1930年の報告には記されていない。

ジャガマイタは、最初から完成した形で存在した祭りではない。旧暦4月8日の祓い、家ごとの植物習俗、名主家の大蛇伝承、若衆と子どもの巡行、八大龍王信仰、雨乞い、神社での祈祷が、時代の変化の中で重なってきた。

起源を約400年前とする説明は伝承として存在するが、創始年を確定する文書は確認されていない。龍昌寺の僧侶を創始者とする説もあるが、僧侶名は「法牛東林」と「法隆東林」に分かれ、同時代史料による確定には至っていない。

「ジャガマイタ」の語源も、「蛇が参った」なのか「蛇が巻いた」なのか決まっていない。

それでも、蛇が町へ来て、家へ入り、水を飲み、最後に共同体の外へ送られるという動きは一貫している。

間々田の蛇は、福を運ぶために訪れるのか。それとも、災厄を持ち去るために現れるのか。

確認できる資料が示しているのは、その二つを分ける必要がない祭りの姿である。巨大な蛇は水と豊穣を願う祭具であると同時に、家々の厄を集めて境界の外へ運ぶ身体でもあった。

意味が一つに決まらないまま、毎年新しい蛇が作られ、同じ掛け声とともに町を進む。その重なりこそが、間々田のジャガマイタが現在まで保ってきた、最も古く、最も解きがたい部分なのである。


参考文献・出典

  1. 文化庁「文化遺産オンライン 間々田のじゃがまいた」
    https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/434193
    参照日:2026年7月22日。
  2. 文化庁「国指定文化財等データベース 間々田のじゃがまいた」
    https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/00000960
    参照日:2026年7月22日。
  3. 文化庁「国指定文化財等データベース 間々田のジャガマイタ」
    https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/312/00000877
    参照日:2026年7月22日。
  4. 文化庁広報誌ぶんかる「蛇を担いで厄ばらい~間々田のジャガマイタ~」
    https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/matsuri/matsuri_001.html
    参照日:2026年7月22日。
  5. 栃木県教育委員会「無形民俗文化財の指定及び保存団体の認定について」2017年
    https://www.pref.tochigi.lg.jp/m01/education/kyouikuzenpan/kyouikuiinkai/documents/1708g4.pdf
    参照日:2026年7月22日。
  6. 栃木県「とちぎの文化財 間々田のじゃがまいた」
    https://bunkazai.pref.tochigi.lg.jp/cultural/%E3%80%90%E9%96%93%E3%80%85%E7%94%B0%E3%81%AE%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%91/
    参照日:2026年7月22日。
  7. 小山市教育委員会編『間々田のジャガマイタ調査報告書――記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財』2018年
    CiNii Research書誌情報:
    https://cir.nii.ac.jp/crid/2120026414961110656
    全国遺跡報告総覧:
    http://sitereports.nabunken.go.jp/144497
    参照日:2026年7月22日。
  8. 小山市「間々田のじゃがまいた伝承館整備基本計画」
    https://www.city.oyama.tochigi.jp/data/doc/1695634731_doc_5_0.pdf
    参照日:2026年7月22日。
  9. 小山市立博物館「国重要無形民俗文化財『間々田のじゃがまいた』」
    https://www.city.oyama.tochigi.jp/museum/exhibition/r2/page002290.html
    参照日:2026年7月22日。
  10. 間々田八幡宮「間々田のじゃがまいた」
    https://www.mamada-hachiman.jp/jyagamaita
    参照日:2026年7月22日。
  11. 小山市「間々田地区に関する景観資料・図版集」
    https://www.city.oyama.tochigi.jp/data/doc/1743400294_doc_20_0.pdf
    参照日:2026年7月22日。
  12. 瀬沼寛二「下野間々田町の『蛇がまいた』」『民俗藝術』第3巻第2号、1930年
    本記事では、栃木県教育委員会「無形民俗文化財の指定及び保存団体の認定について」に収録された要約および引用内容を参照した。
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Posted by fake-lie-collection