【オーパーツ】聖徳太子が創建した斑鳩寺に伝わるオーパーツ「聖徳太子の地球儀」
今回は、アメリカ大陸やユーラシア大陸はもちろん、幻の大陸と言われる「メガラニカ」まで描かれた「聖徳太子の地球儀」について紹介しよう。
マルティン・ベハイム/ Georg Glockendon – 投稿者自身による著作物, CC BY-SA 2.0 de, リンクによる
ちなみに上図は現存する最古の地球儀
聖徳太子の地球儀とは?
兵庫県斑鳩寺に伝わる「聖徳太子の地球儀」は、オーパーツ(時代錯誤の産物)として知られている。
この地球儀には、南極大陸や幻のムー大陸、さらには「メガラニカ」と呼ばれる伝説の大陸が描かれており、太古の地球にあった大陸をそのまま写し取ったと遺物として注目されている。
製作年代や由来は不明瞭で、太古の文明が持っていた地球規模の知識が、何らかの方法で後世に伝わったと推測されているが詳しい来歴は分かっていない。
地球儀は斑鳩寺に保管
聖徳太子の地球儀と呼ばれる「斑鳩寺(いかるがでら)の寺宝」は、非常に興味深い歴史的遺物であり、日本史や文化財における貴重な存在とされる。
斑鳩寺は、兵庫県は太子町にある寺院で、聖徳太子が開いたと伝えられる歴史的な寺だ。
この寺には、古代の日本における知識と技術の象徴としての地球儀が伝わっており、これは「聖徳太子の地球儀」として知られている。
斑鳩寺と聖徳太子の関係
斑鳩寺は、飛鳥時代に聖徳太子が自らの発願により建立されたと伝えられる寺院だ。
聖徳太子は、政治家であり宗教家としても知られ、仏教の広がりを推進し、国の統治においても多くの改革を行った。
そのため、彼に関する数多くの伝承や遺物が存在しますが、その中でも地球儀に関しては特に異彩を放つ遺物と言える。
聖徳太子は、仏教を中心にした思想の普及に努める一方で、国際的な視野を持っていたとも考えられている。
彼が中国やインドなどの海外との文化交流に強い関心を持っていたことは、歴史的な文献からも推測される。
このような背景から、彼の知識や見識の広さが反映された「地球儀」という概念が生まれた可能性がある。
聖徳太子の地球儀の由来と意味
斑鳩寺に伝わる地球儀は、地理的な知識や天文学的な要素が反映されたものであるとされている。
しかし、実際には地球儀という概念が日本に入ってきたのは、遥か後の近世以降と考えられているため、この地球儀は聖徳太子の時代に作られたものではなく、後世の作成物である可能性が高い。
では、なぜ「聖徳太子の地球儀」と呼ばれるのか?
一説には、この地球儀が聖徳太子の広い知識と国際的視野を象徴するものとして後世に語り継がれ、彼に関連付けられるようになったという解釈がされているからだ。
また、聖徳太子は仏教思想を通じて世界のつながりを説いており、地球儀はその思想を視覚的に表現する象徴的なものと考えられている。
地球儀の具体的な特徴
斑鳩寺の地球儀は漆喰で非常に精巧に作られている。
地球儀はソフトボールほどの大きさであり、表面には当時知られていた世界地図がレリーフ状に描かれている。
日本を中心にした世界観が反映されており、東アジアや東南アジア、さらにはインドや中国の地域が特に詳しく描かれていることが特徴だ。
これがいつどのように作られたかについては、明確な記録は残されていないものの、斑鳩寺の長い歴史の中で、海外との交流や技術が導入される過程で作成されたと考えられている。
その中でも目立つのが「メガラニカ」と呼ばれる大陸が地球儀に書かれている点だ。
この大陸が各地図に書かれるようになったのは18世紀頃とされており、地球儀もその時点での地図を参考に作られてたと考えられている。
聖徳太子が宇宙から地球を見て作った可能性は非常に低いが、実際にメガラニカと呼ばれる大陸が当時存在していた可能性も考えるとロマンがある。
※全て嘘で全て偽、信じるかはアナタ次第だ