【歴史】悪路王(あくろおう)は本当に存在した人物なのか?

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坂上田村麻呂が征伐した人物として名が挙がる「悪路王(あくろおう)」は、本当に居た人物なのか・・・

悪路王とは?

悪路王(あくろおう)は、鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の伝説上の人物だ。

文献によっては「悪来王」「悪毒王」「阿久留王」といった名でも登場する。

悪路王は、蝦夷(えみし)の賊首として描かれ、坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたとされている。

伝説によると悪路王は、平泉にある達谷西光寺の縁起に登場し、東北地方で栄華を極めた時代の平泉で大将軍坂上田村麿公の本地を毘沙門天とする田村信仰が発祥。

そこから悪路王伝説が東北各地へと発信されたと言われている。

歴史学からは、悪路王は後世に創出された伝説であり、史料とは認められず俗説にすぎないとする見解もあるが、民俗学からは歴史上の人物であるアテルイと悪路王を同一視する論説や、モチーフとなって悪路王伝説が生まれたとする論説もあるが定かでは無い。

このように、悪路王については様々な説が存在し、実在または架空かの見解が分かれているのが現状だ。

 

悪路王伝説

続いて、悪路王が行ったとされる伝説をいくつか紹介しよう。

達谷窟毘沙門堂の伝説

岩手県平泉町にある達谷窟毘沙門堂は、延暦20年(801年)に坂上田村麻呂によって創建されたとされている。

このお堂には悪路王の伝説が残されており、悪路王はここに塞を構え、女子供を攫うなどして人々の生活を脅かしていたと言われている。

坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、悪路王の首を刎ねて蝦夷を平定したという話が伝わっている。

御伽草子『立烏帽子』に描かれた悪路王

御伽草子は、鎌倉時代末期から江戸時代にかけて作成された絵入りの物語集だ。

その中の『立烏帽子』では、悪路王は悪鬼阿黒王として登場し、坂上田村五郎利成(おそらく坂上田村麻呂と藤原利成の2名が混同された名前)によって退治されている。

この物語では、悪路王は人間ではなく、鬼の扱いとなっているのが面白いところだ。

『前々太平記』に描かれた悪路王

『前々太平記』は、奈良時代から平安時代前期までの歴史を集めて編纂された軍記物。

この軍記物では、悪路王は坂上田村麻呂によって生け捕りにされ、その後、田村麻呂は胆沢に八幡宮を建立し、弓矢を奉納している。

また、達谷窟に寺を建て、多聞天像を安置したとされている。

 

これらの伝説が残っているが、悪路王が実際に存在したかどうかは定かではない。

 

坂上田村麻呂は実際に悪路王を征伐したのか?

悪路王と坂上田村麻呂が実際に対峙したかどうかは、歴史的な証拠に基づくと確定的とは言えない。

悪路王は伝説上の人物として知られており、彼の実在については諸説あるためだ。

一方、坂上田村麻呂は蝦夷征討のために東北地方に派遣されたことが史料に記録されているため実在の人物だとされている。

伝説では、坂上田村麻呂が悪路王を討伐したとされていますが、これは後世に創られた物語である可能性が高い。

実際には、坂上田村麻呂が蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)と対峙したことは史料によって確認されている。

阿弖流為は奈良時代末期から平安時代にかけて東北地方を支配していた在地勢力のリーダーであり、坂上田村麻呂との戦いも記録されている。

しかし、悪路王という名前の人物が実際に坂上田村麻呂と戦ったという直接的な証拠が無い。

悪路王の物語は、阿弖流為の伝説が時代を経るにつれて変化し、様々な形で語り継がれた結果、生まれた可能性があると言われている。

そのため、悪路王と坂上田村麻呂の対峙は、歴史的事実というよりは、伝説や物語の中での出来事と考えるのが自然とされる。

 

 

※全て嘘で全て偽、信じるかはアナタ次第だ